コラム
「七歳までは神のうち」子どもの成長は神頼み 連載80
(本稿は老友新聞本紙2017年11月号に掲載された当時のものです)
秋真っ盛り、そして実りの秋です。さあ、何処かに出かけよう、何かを始めようと机上の計画だけは進む私です。今はちょうど七五三の季節ですから、可愛い晴れ着の子ども達を街で見かけます。見ているだけで、とても和やかで嬉しい気持ちになるのは皆さんも同じだと思います。
子どもは国の宝です。七五三の由来は諸説ありますが、三代将軍家光が後の五代将軍綱吉の無事成長を祈って袴着の儀を行なった。また、その綱吉が長男の健康を祈って行なった。という二つの説が有力です。
諺に「七歳までは神のうち」というものがありますが、前近代社会では誕生した子どもの健やかな成長は切実な親の願いでした。
江戸時代後半の北関東の農村の死亡率を推定した研究では、出産のうち10~15%が死産、乳児死亡を合わせると、出生児10人のうち6歳の誕生日を無事に迎えられるのは7人以下で、16歳まで生きられるのは5、6人という記録があります。時代、地域、階層によっても異なると思いますが、江戸時代は、都市部、農村部、町人や武士、大名までも、乳幼児の死亡率が今の時代とは比較にならないほど高かったのです。
江戸時代の人々にとって、子どもは死と隣り合わせの存在であり、無事に成長するかどうかは、人間の力が及ばない何か大きな存在に頼るしかなかったのでしょう。
人の一生には、誕生、成人、結婚、死亡などの節目があり、子どもの成長に関する儀礼を「産育儀礼」とよんでいます。
神仏の力を借りて子どもの健やかな成長を願う「名づけ祝い」や「宮参り」は生まれた子どもを「家」の子どもとして育てることを、氏神様や周りの人々に認めてもらうという意味の儀式です。
生まれたばかりの子どもは、産神の管理下にあり、霊界と人間界の両方にまたがっていると考えられていたため、子どもは別な世界に属する聖なる存在だとされていたのです。
当時は7歳前後に「氏子入り」といって氏神参りすることが多かったのですが、これはやっと氏神からも社会からも認められることを意味しています。
「人として尊ばれる」「社会の一員として重んぜられる」(『児童憲章』)現代の子ども観とはかなり違っていました。
身分に関係なく乳幼児の生死は人間の力を超えたもので、子どもの無事な成長は親の悲願だったのです。
そして、その願いは時を経た今も変わらないと思います。
(本稿は老友新聞本紙2017年11月号に掲載された当時のものです)
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