コラム
「梅は桜の前座じゃない!」江戸時代は梅の花見が「通」だった? 連載11
江戸時代に生きていたならば、もっと人生を楽しんでいただろうと感じる事が多くなったように思います。江戸時代までの暮らしの心地良さは、なんといっても、太陽や月、気温、樹木、水に人間が寄り添っていた事で、今よりもはるかに自然や季節毎に咲く花に敏感だったはずです。
私達現代人にとってはあまりピンと来ませんが、二月の別名は《梅見月》といいます。お花見となると、今ではほとんどの日本人の支持率は梅よりも桜の方が圧倒的に高く、「梅は咲いたか桜はまだかいな」と歌われるように、どうしても梅は前座で、桜を主任に見立てているためでしょうか?
江戸時代にも梅は通人に、桜は一般人にという区別があったようでしたが、江戸の梅見の盛りは現代とは比べものにならず、切り花、盆栽、庭木として観賞され、三百種類以上の花梅のうち、そのほとんどが江戸時代に作られています。
さて、江戸の梅といえば蒲田の梅林。玉川(多摩川)の手前にある蒲田の梅屋敷でした。
薬師問屋の自邸に続く庭園を造成、そこに梅を植えたのが始まりで、東海道をはさんで両側に面していたことが蒲田梅屋敷を有名にしたようです。十二代将軍の家慶、十四代将軍の家茂はここを休憩の場に使っていたほどの処でした。
つぎに亀戸の梅屋敷。「江戸名所花暦」には〈臥竜梅〉こそが絶品と書かれています。
垂れ下がった枝が地中に埋まり、それが地上に再び生え出た姿が、竜が地に臥した姿に似ているのでこの異名をとるようになったと言われています。この珍しい姿の梅の木に咲く淡い紅色の可憐な花は、麝香と欄が混じったような香りをただよわせたといわれるように、やはり梅は香りも勝負だったのでしょう。
もうひとつ亀戸の梅屋敷に対して造られたのが新梅屋敷として知られるようになった「百花園」。今の「向島百花園」です。
ここの完成は文化元年頃で、当時から一般に公開されており、どちらかといえば通人や身分の高い方に独占されがちだった梅見を江戸庶民に広く親しめる役割を果たしてくれた所です。その他の梅の名所としては小村井、湯島天神、向島などが知られています。
年に一度のハレの日である桜の花見と大きく違うところは、歌舞音曲、派手な酒盛りなどせずに、豊かな心でほのかな梅の香りを静かにそっと楽しみながら歌などを詠んで過ごした、品のある観賞だったようです。
普段の生活の中では梅見を楽しむ習慣のない現代人だからこそ、五感を研ぎ澄まし、種類によって少しずつ違う香りの梅をじっくりと愛でる時間を持つのもいいかもしれません。今も現存する江戸の梅林に足を運び、小さな花から江戸人の心を感じてみたくなりました。静かに……そっと。(老友新聞社)
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